はじめに:SNS時代の子どもが「昔話」にピンと来ない理由
長年、日本の昔話を子どもたちに語る活動を続けてきましたが、ここ数年、子ども達は昔話絵本を読もうと思ってものってきません。
「昔話って昔のことでしょ!なんか古くてつまらない」「絵本より動画のほうがいい」といった反応に出会う場面が増えてきました。
朝、登園した2歳児が友達と話していました。「きのう、ユウーチューブ、見た?」「うん、見た。あれ、バズってるよね!」
教室の外に目を向けると、遊んでいる子どももいれば運動場の片隅にしゃがみこんで短い動画やゲームに夢中の子どももいます。もちろん、幼稚園や保育園にゲーム持ち込みは禁止しているのですが・・・。
子ども達が物語をゆっくり味わう時間はどんどん細切れになり、隙間時間で絵本をぱらぱらと見る(味わうのではなく)ように感じます。
そこで、「子どもたちの『バズりたい気持ち』と昔話の世界は、本当に相性が悪いのだろうか」と問い直し、『花咲か爺さん』をごっこ遊びを通して追体験する実践と、その中で見えてきたことをまとめてみることにしました。
子どもの「バズりたい」は、ただの目立ちたがりではありません
最近の子どもたちと話していると、「クラスで話題になりたい」「グループで仲間はずれにされたくない」「自分の考えを知ってほしい」といった声をよく耳にします。
表面的にはSNSの「いいね」やスタンプへのこだわりに見えても、その奥には「だれかとつながりたい」「自分の存在を感じたい」という、ごく自然で健やかな願いがあるように感じます。
大人もまた、仕事や趣味の発信を通して小さな「バズり」を経験しながら承認欲急を満たし、自信を育てていることを思うと、子どもの承認欲求だけを「悪いもの」と決めつけるのは少し違うと思います。
「いいね」がたくさんついた時、バズった時、誰かと繋がった、誰かが自分を認めてくれたと嬉しくなります。それはそれで良いと思います。
大切なことは、「共感された瞬間」を子ども同士、時には保育者が一緒に振り返り、対話の場を持つことだと思います。
「花咲か爺さん」は、ご利益話だけではない。犬のシロとの出会い、別れ、繋がり直しの関係性の物語
『花咲か爺さん』を「ご利益の話」ではなく「関係の物語」として読む 昔話というと、「良いことをすると良いことが返ってくる、悪いことをすれば悪い結果が待っている。
因果応報、善悪分別の話ですよね」と、単純なご利益物語として受け取られがちです。
そのような受け止め方も間違いではないと思います。
しかし、『花咲か爺さん』をじっくり追っていくと、「正直なお爺さんが得をした」という結果よりも、「犬のシロとどのように出会い、別れ、つながり直していったか」という関係の変化とシロに対するお爺さんの心情が丁寧に描かれていると感じます。
そこには、人と動物、人と自然、人と目に見えない何かとの距離感を探ろうとする、日本らしい独特の感性が埋め込まれているように思えます。この感性は西洋の昔話にはあまり見られないと感じていますが。
「花咲か爺さん」あらすじ。焦点は「どこで心が動くか」に置きます。
ここからは、物語の骨組みだけを確認しておきます。
・正直なお爺さんとお婆さんが、白い犬のシロに導かれて思いがけない恵みを受けます。
・隣の欲張りなお爺さんが真似をしてもうまくいかず、ついにはシロを傷つけてしまいます。
・シロを悼む気持ちから植えた木や臼、灰を通じて、再び不思議な恵みがもたらされます。
・正直なお爺さんは、殿様から褒美をもらいますが、それ以上に「シロとのつながり」を大事にし続けているように描かれます。
子ども達はどの場面で立ち止まり、どのような問いを口に出したか?
この記事では、このあらすじそのものよりも、「子どもたちがどの場面で立ち止まり、どんな問いを口にしたのか」に焦点を当てていきます。
白い犬・シロは「便利なラッキーキャラ」ではなく、子どもが感じる「消えない存在」です。
読み聞かせの場面で「シロはどういう犬だと思う?」と尋ねると、大半の子どもは「お金や宝物を見つけてくれる、ありがたい犬」「うちもシロ、欲しい!」と元気な声が返ってきます。
ところが、ごっこ遊びの中でシロが倒れ、木になり、臼になり、灰になって…と姿を変える場面を繰り返していくと、「あれ、変だなあ。シロは死んだのに、まだそばにいるみたい」「絶対に死んでないよね」という声が少しずつ確実に増えていきました。
子どもたちにとってシロは、幸運を運んでくれるただの犬ではなく、「見えないかれど確実に生きている存在」へと変化していっているようです。このように感じることができる子どもが羨ましいと思います。
ごっこ遊びで見えた「灰」と「心」のディスカッション。
ある幼稚園で『花咲か爺さん』の絵本を読んだとき、ある男の子が読み終わる前に「まだ?もう遊んでいい?」とぼそっと言いました。他の子ども達の口から遊びたいとと言う声が聞こえました。
耳では確かに聞いているのに、物語が体には落ちていっていない、届いていない。このままでは「シロがどんな存在だったのか」が何も感じないまま通り過ぎてしまうと感じました。
そこで、一度読み聞かせを止め、子どもたちと一緒に役を決めて、物語をまるごと「ごっこ遊び」に変換してみることにしました。
「灰は同じなのに、なんで咲かないの?」と立ち止まる子どもたち
ごっこ遊びで欲張り爺さん役をしていた男の子が、花が咲かない場面で突然立ち上がり、「なんで咲かないの?こっちの灰のほうがいっぱいなのに変だよ!」と荒声を上げました。
「灰の量を増やせば結果が出るはずだ」という、ある意味とても現代的な発想に、周りの子どもたちも「そうだよ、変だよ」うなずきます。
一瞬、不穏な空気が流れましたが、その沈黙を破るように、正直爺さん役の子が「灰は同じでも、まく人の心が違うからだよ」とぽつりと言いました。
そこから「灰に心はあるのか」「心はどこまで移るのか」という話し合いが始まり、「その人の気持ちが、灰にくっついていくんだよね、きっと」「ぜったい、そうだよ」。
灰は人の心がわかるというまとめが、子どもたち自身の言葉として出てきました。
「死んだのに、まだいるみたい」という感覚をどう受け止めるか。
シロ役の子どもが、倒れる場面を演じ終えたあと、床に寝転んだまま「シロ、死んだよね。でも、まだここにいるよ」とつぶやきました。
「どこにいるの?」と尋ねると、「ここ(胸)とか、臼とか、灰とか…わからないけれど、ぜんぶ!」と、体のいろいろな場所を指さしながら答えてくれました。
「そう、すごいね。全部にいるのね」シロ役の子のまわりで見ていた子ども達も私もシロがすぐそばにいるような気がしました。
大人の言葉で説明するなら「象徴」という概念に近いのかもしれませんが、子どもたちはそんな理屈より先に、「かたちは変わっても続いている何か」を、ごっこ遊びのなかで直感的に受け止めているようです。
桜が咲く場面で、子どもは「ご褒美」よりも「約束」を感じていました
ごっこ遊びで桜の花が一斉に咲く場面を作ったとき、ある子が「シロが、ちゃんと見ていてくれたのよ」としっかりした落ち着いた声で言いました。
他の子ども達も言いました。「シロはお爺さんがやってくれたことがうれしかった」「お金もいいけれど、シロはうれしかったんだよね」「それって、約束だよね!」「シロは約束を守ったんだよ」
「お爺さんがシロにしたことを忘れなかったから、ちゃんと返してくれた」という”約束が守られた感じ”を、子どもたちは共有していたと思います。
日本では桜が入学や卒業などの節目と重なりやすいこともあり、「終わりと始まりがつながっている」という感覚を呼び起こしやすい花だと、現場で改めて感じさせられました。
「バズる」は、心と心が一瞬でつながる体験としてとらえ直せます
SNSの世界では「バズった・バズらなかった」が数字として一瞬で可視化されますが、その裏側には必ず「どの言葉や行動に、誰の心が反応したのか」という物語があります。
正直なお爺さんは、褒美をもらおうと思って灰を撒いたのではなく、「この木だけは、生きてほしい、花を咲かせてほしい」という、見返りを求めない真にやさしい願いを込めたのだと思います。
その姿勢は、フォロワー数や再生回数を気にする前に、「この一人にきちんと届くだろうか」と相手の顔を思い浮かべながら投稿する感覚に近いものです。
「バズる」を単なる数字上の競争ではなく「心と心がかみ合った瞬間」ととらえ直すことで、子どもとの対話の中でも、数字よりも中身に目を向けやすくなるはずです。
まとめ|子どもの「バズりたい気持ち」と昔話をつなぐためにできること
『花咲か爺さん』をごっこ遊びで繰り返し演じていると、子どもたちは「同じ灰なのに結果が違うのはどうして」「死んだのに、まだいる感じがするのはどうしてか」といった問いを、自分の言葉で投げかけてくれるようになります。
その様子は、「自分ならどうするか」「この気持ちを誰と共有したいか」を探っているように感じます。
大人にできるのは、物語の意味を一方的に説明したり、教え込むのではなく、子どもが立ち止まったタイミングで「どう感じたか」「どこが引っかかったか」と問い返し、その対話の時間を丁寧に確保することだと思います。
SNSが当たり前の時代だからこそ、数字だけでは測れない「心に花が咲く経験」を、昔話とごっこ遊びを通して、子どもと一緒に少しずつ積み重ねていきたいと思います。
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参考文献・資料
稲田和子・小澤俊夫編『日本の昔話百選』(岩波書店)
小澤俊夫『昔話の語法』(小澤昔ばなし研究所)
柳田國男『神と人との間』(岩波文庫)
筆者による語りとごっこ遊びの実践記より

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