第1章:はじめにーー物語の「こわさ」は本当に悪いもの?

子どもに怖い話してもいいの?大丈夫かなあ・・・

大丈夫よ!子どもは物語の中ではらはらドキドキの体験をして、それを実生活に役立てる才能を持っているから安心してね。
「怖い話は子どもに良くないのでは?」「劇あそびは遊んでいるだけでは?」という声は、保育や家庭の場で何度も耳にしてきました。
けれども、昔話には子どもが安心して“こわさ”や“ドキドキ”を体験し、自分の感情を知るための大切な仕掛けが隠れています。
この記事では、昔話『オオカミと七匹の子ヤギ』をもとに、親子の絆、子どもの感情の成長、判断力や共感力の育ちについて、保育現場や地域での実践から整理していきます。
長年の劇あそびの中での失敗や試行錯誤も含めて、台本づくりの工夫、演出のポイント、子どもたちや保護者のリアルな反応を紹介しながら、「物語を生きる体験」が子どもの心にどれほど深く残るのかをお伝えします。
子どもが“物語を生きる”瞬間
ある年の春、保育園で『オオカミと七匹の子ヤギ』を劇にしたときのことです。
オオカミが戸を叩く場面になると、子どもたちは一斉に立ち上がり、「開けちゃダメ!」「足が黒いよ!」と声を張り上げ、舞台に向かって手を振ったり、思わず前へ駆け寄ったりしました。

このとき、私はできるだけ子どもたちを制止しないようにしています。声が大きくなっても、席を立ってしまっても、子どもが物語の中で“本気で生きている”状態こそが、劇あそびの醍醐味だと感じているからです。
もちろん、状況がエスカレートしてしまうこともありますが、「静かに見なさい」を言い続けていると、子どもは本音や感情を出さなくなります。
だからこそ、子どもたちとことばを交わしながら一緒に劇をつくるスタイルを、長年大切にしてきました。そこにこそ、子どもの心の声が表れるのです。
オオカミを“待ち望む”子どもたち

オオカミ、まだ?次いつ出てくるの?
興味深かったのは、子どもたちの多くがオオカミを極端に怖がる様子を見せなかったことです。むしろ「オオカミ、まだ?」「次いつ出てくるの?」と、次の登場を心待ちにしている子が目立ちました。
ある年の練習では、オオカミの出番が終わると、舞台袖にいた年長児が走ってきて「オオカミ、もう一回出して!あそこ、もっとドキドキしたい!」と目を輝かせて頼んできました。
別の子は、オオカミの声が聞こえた瞬間、「きたー!」と叫びながら思わず立ち上がりました。

子どもは、大人の想像以上に、自分なりの“こわさの楽しみ方”を見つける力を持っています。
大人から見ると“怖い存在”であるはずのオオカミを、子どもたちはあえて待ち望んでいました。
子どもは、大人の想像以上に、自分なりの“こわさの楽しみ方”を見つける力を持っています。「怖すぎないかな」と心配する前に、物語の世界で安全に感情を揺らすことを、子どもたちはすでに受け止め、楽しんでいるのです。
第2章:物語の力――母の愛と子どもの心の動き
感情を動かす練習

ほんとに切るの?おなか…。

お母さんは、子どもを助けるためなら何でもするのよ。
「え、本当にやっていいのね!やった!」その子は本番で、しっかりとセリフを言い切り、堂々と母の愛を表現しました。
劇遊びは親子の距離を近づける
ある年、オオカミの絵を描いていた男の子が言いました。

オオカミ、真っ黒にしたい。だって、黒いほうがもっとこわいもん。
別の子は笑いながらこう言いました。

デブにしたい!おなかパンパンにして、石がいっぱい入るように!
中には、こんな子も。

やせっぽちのオオカミにしよう。だって、おなかすいてるから、こやぎ食べちゃうんでしょ?

そんなふうに考えてたのか。物語の背景まで想像してるなんて、すごいね。
そんなやりとりを、そばで見ていたお母さんが、 「へえ、そんなふうに考えてたんだ」とつぶやいたことがあります。
劇あそびは、親子の距離を自然に近づける時間でもあるのです。 子どもが自分の考えを言葉にし、大人がそれを“初めて知る”―― その瞬間に、物語が親子の橋渡しをしてくれるのです。
第3章:劇あそびの工夫
“考える間(ま)”をつくる
オオカミが戸をトントンと叩く場面では、あえてすぐにセリフを言わせず、子どもたちが顔を見合わせる“間”をつくるようにしています。

間ってどういうこと?教えて

台本には書いてない。子ども達が自分で考える時間。これがとても大切なのよ
誰も何も言わない時間が少し流れると、「どうする? 開ける?」「でも声がちがうよ」「足を見てみようよ」といった小さな相談が自然に生まれます。 この“相談の時間”は、台本には書かれていません。
それでも、子どもたちが自分で考え、仲間と確認し、どうするかを決めようとする大切なプロセスです。
この“間”があることで、子どもたちは単にセリフを覚えて演じるのではなく、「自分だったらどうするか」を本気で考え始めます。劇あそびが“判断力の練習”になるのは、まさにこうした瞬間です。
子どもたちが小さな声で相談し合い、「どうしようか」と迷いながら決めていくこの時間が、劇あそびの中で特に心に残る場面です。
ここには、正解を教えられるのではなく、自分で考えて判断しようとする子どもの姿があります。
第4章:末っ子の意味―小さな存在が運ぶ希望
小さな希望の種

なんで末っ子ばっかり助かるの?

三番目や七番目って、いちばん“育った姿”なのよ。

ふーん、希望ってそういうことか。

そう。最後まであきらめない心が、物語の中にちゃんとあるの。
末っ子は、ただの小さな存在ではありません。 物語の中で、希望をつなぐ“光”のような存在です。
ある年、末っ子やぎの役を演じた年中の男の子が、 劇の終わりに胸を張ってこう言いました。 「ぼくがいたから、みんな助かったんだよ!」
その子はふだん、少し引っ込み思案で、 大きな声を出すのが苦手なタイプでした。 でもこのときばかりは、自分の役割に誇りを持っているのが、全身から伝わってきました。
また、別の年には一人っ子の女の子が末っ子役を演じ、 終演後にお母さんがそっと私に言いました。 「この子、家でも“わたしが助けたのよ”って何度も話してくれて…。劇をする前と後でこんなに違ってくるのでびっくりです」と。
たった一人でも生き残っていた――その事実が、子どもたちに“自分にもできる”という感覚を与えるのです。そしてその感覚こそが、安心と希望の芽になるのだと、私は思います。
物語が、子どもの心にしっかり届いたと感じる瞬間。 劇あそびの教育的な力を、改めて実感する場面です。
自分にもできるかもしれないという感覚
あるとき、末っ子やぎの役を演じていた男の子が、 練習の途中でふいに、こう言いました。
「ぼくが、みんなを助けるんだよね。だから、ちゃんとやらなきゃ。」
その声には、小さな体からあふれるような責任感と誇りがありました。 私は胸がいっぱいになってその子をぎゅっと抱きしめました。
この子は今、物語の中で“自分の力”を見つけている。 小さな存在が、物語を動かす力になることを、 子ども自身が、ちゃんと感じ取っている。
その姿を見たとき、私ははっきり思いました。 物語は、教師以上に子どもを育てることがある。
私たち大人が教えようとする前に、 物語が、子どもに語りかけ、導いてくれる。
劇あそびを通して、私は何度もその瞬間に立ち会ってきました。 物語を演じることの教育力は、ほんとうに偉大です。 私は、それを心から尊敬しています。
第5章:末っ子やぎの力――「自分にもできる」の芽を育てる

ぼくがいたから、みんな助かったんだよ!
ある年、末っ子やぎの役を演じた年中の男の子が、 劇の終わりに胸を張ってこう言いました。
その子はふだん、少し引っ込み思案で、 大きな声を出すのが苦手なタイプでした。 でもこのときばかりは、自分の役割に誇りを持っているのが、全身から伝わってきました。

この子は今、“自分にもできる”って感じている。物語が育ててくれたんだね。
また、別の年には一人っ子の女の子が末っ子役を演じ、 終演後にお母さんがそっと私に言いました。 「この子、家でも“わたしが助けたのよ”って何度も話してくれて…。劇をする前と後でこんなに違ってくるのでびっくりです」と。
たった一人でも生き残っていた――その事実が、子どもたちに“自分にもできる”という感覚を与えるのです。そしてその感覚こそが、安心と希望の芽になるのだと、私は思います。
物語が、子どもの心にしっかり届いたと感じる瞬間。 劇あそびの教育的な力を、改めて実感する場面です。
第6章:オオカミの役割――「信じる」と「疑う」の練習

オオカミにも役割がある?信じられない

信じるってなに?疑うって何?ーーーそれを考える練習になるのよ。

声が似てたら、ほんとにまちがえちゃうかも…

たしかにそうね。信じたい気持ちと疑う気持ち、その間で揺れることが大事なの。
オオカミは、ただの“悪者”ではありません。 物語の中で、子どもたちに「信じるとはどういうことか」「疑うとはどういうことか」を問いかける、大切な存在です。
たとえば『七ひきのこやぎ』では、オオカミはお母さんの声をまねたり、足を白く塗ったりして、こやぎたちをだまそうとします。 子どもたちはその様子を見ながら、心の中で葛藤します。
「これ、おかあさんじゃないよね?」 「でも声が似てる…どうしよう…」 「信じていいの? だめなの?」
この“迷い”こそが、物語の中でしかできない心の練習なのです。
ある年、オオカミ役を演じた男の子が、リハーサルのあとに私にこう言いました。
「ぼく、ほんとは悪いことしたくないんだけど、だまさないと入れないから…」 その言葉に、私ははっとしました。 彼は“悪役”を演じながらも、自分の中の善と悪をちゃんと感じていたのです。
また、こやぎ役の子どもたちも、オオカミの声にどう反応するかを何度も話し合います。
「声がちょっと変だったら、ドア開けないようにしよう」 「足が白くても、においでわかるかも!」 そんなやりとりの中で、“見抜く力”や“自分で判断する力”が育っていきます。
オオカミは、こわい存在であると同時に、 子どもたちの心を揺さぶり、考えさせ、成長させる“問いかけの存在”なのです。
だから私は、オオカミ役を“ただの悪者”として演じさせることはしません。
「なぜオオカミはだましたのか」「どうしてこやぎたちは信じたのか」 そんな問いを、子どもたち自身に投げかけながら、 “信じる”と“疑う”のあいだを、安心して行き来できるように導いていきます。
物語の中で、子どもたちはだまされることの悔しさも、信じることのあたたかさも体験します。 そのすべてが、これからの人生で出会う“本当の選択”の練習になると、私は信じています。
だまされる体験が教えてくれること
オオカミが母ヤギの声をまねて戸を叩く場面は、子どもたちにとって“だまされる”という感覚を安全に体験できる貴重な機会です。
ある年、子ヤギ役の子どもたちに「オオカミが来たらどうする?」と聞くと、「声がちょっと違ったら開けない。でも、足が白かったらちょっとだけ開けちゃうかも」と答えた子がいました。
別の子は「お母さんの声に似ていたら、本当にまちがえちゃうかも」と正直な気持ちを話してくれました。
このやりとりから、子どもたちは“信じたい気持ち”と“疑う気持ち”の間で揺れ動きながら、自分なりの判断軸を探していることが伝わってきました。
劇の中でオオカミにだまされたあと、「どうして開けちゃったんだろう」「もっとちゃんと見ればよかった」と自分たちで振り返る姿も見られました。
こうしたやりとりは、「この相手は信じてよいのか」を自分で考える練習そのものです。
オオカミ役の子が見せた“もうひとつの気持ち”
オオカミ役を演じた男の子がいました。 本番では、低い声で「がおー!」と叫び、子やぎを追いかける姿がとても堂々としていて、 観ていた大人たちからも「すごい迫力だったね」と拍手が起きたほどです。
ところが、劇が終わって衣装を脱いでいたとき、 その子がぽつんと、私にこう言ったのです。
「オオカミ、ちょっとかわいそうだった…」
私は驚いて、「どうしてそう思ったの?」と聞き返しました。 すると彼は、少し考えてから、こんなふうに言いました。
「だってさ、オオカミ、ひとりぼっちだったんじゃない? おなかすいてただけなのに、石つめられて、井戸に落ちちゃって… なんか、ちょっと…かわいそう。」
そのときの彼の顔は、演じていたときの“強いオオカミ”の顔とはまったく違っていました。 目線は少し下を向いて、声も小さくて、でも確かに“何かを感じている”顔でした。
私はその表情を見て、この子は今、物語の中で“相手の気持ち”に触れたのだと感じました。
演じることで、ただ役になりきるだけでなく、 その役の心の奥にある“もうひとつの気持ち”に気づく―― それは、想像力と共感の芽生えにほかなりません。
劇あそびの中で、こうした瞬間に出会えること。 それが、私がこの仕事を続けている理由のひとつです。
第7章:台本と演出――子どもが主役になるための工夫
子どもが主役の台本づくり
台本づくりでは、セリフを短く、リズムよく、子どもが言いやすい言葉にすることを心がけています。
ナレーションは必要最低限にとどめ、できるだけ子どもの動きや表情で物語が進むように構成します。
大人が説明しすぎず、子ども自身の声と体で物語を紡いでいくことで、「自分たちの劇」という感覚が強まり、集中力も高まります。
ここでは、実際に保育現場で使っている台本の一部と、簡単に取り入れられる演出の工夫を紹介します。
台本シーン①戸を叩くオオカミと子ヤギたち
登場人物: ナレーター、子やぎ①〜③(人数に応じて調整)、オオカミ(声だけでも可)
【場面:子やぎたちの家の中】
ナレーター:お母さんヤギが出かけて、子ヤギたちはお留守番をしています。
子やぎ①:お母さん、まだ帰ってこないかなあ。
子やぎ②:おなかすいちゃったよ。
(トントン!と戸をたたく音)
オオカミ(外から):開けておくれ、かわいい子どもたち。お母さんだよ。
子やぎ③:(耳をすます)なんか声がガラガラしてるよ?
子やぎ①:ほんとのお母さんじゃない!オオカミかもしれない!
子やぎ②:開けちゃダメ!かくれよう!
ナレーター:子ヤギたちは、あわててかくれました。
演出のポイント
・隠れる場所として、椅子の下や布をかぶせた机などを使うと、子どもたちの動きが大きくなり、見ている側も楽しくなります。
・子ヤギたちがあわててかくれる様子をたっぷり見せると、自然と笑いが起き、会場全体が物語の世界に引き込まれます。
・オオカミ役の子は、戸の外で「開けろ!食べてやるぞ!」など自分なりのセリフをつけ足してもよいでしょう。
台本シーン②:母ヤギが子ども達を助け出す場面
登場人物: 母ヤギ、ナレーター、末っ子ヤギ、子ヤギたち(中からの声)、オオカミ(寝ている)
【場面:森の中、オオカミが寝ている】
ナレーター:お母さんヤギは、森でぐっすり眠っているオオカミを見つけました。
母ヤギ:(そっと近づきながら)このおなかの中に、子どもたちがいるかもしれない…
末っ子ヤギ:(そばで見て)お母さん、どうするの?
母ヤギ:大丈夫。いま、みんなを助けるからね。
(母ヤギがそっとはさみでオオカミのおなかを切る真似をする)
ナレーター:すると、おなかの中から、子ヤギたちが次々と出てきました。
子やぎたち:(中から)お母さーん!
母ヤギ:よかった…みんな、無事だったのね!
末っ子ヤギ:お母さん、オオカミのおなかに石を入れれようよ。
ナレーター:お母さんヤギと子ヤギたちは、オオカミのおなかに石をつめて、しっかりぬいました。
(オオカミが起き上がり、ゆっくり井戸の方へ歩く)
ナレーター:オオカミはのどがかわいて、井戸へ行きました。
でも、おなかが重くて…どぼーん!
子ヤギたち:やったー!もう大丈夫!
母ヤギ:さあ、おうちに帰りましょう。
<演出のポイント>
・オオカミのおなかは、布やクッションでふくらませて表現できます。 ・石の代わりに、丸めた新聞紙を布の中に入れると、安全に雰囲気を出せます。
・井戸は布をかぶせた箱や、青い布で表現し、オオカミ役が「落ちるまね」をするだけでも十分伝わります。
演出で“考える時間”と“安心の終わり”をつくる
オオカミが戸を叩く場面では、照明を少し暗くし、トントンという音をゆっくり響かせるようにしています。その瞬間、子どもたちの動きが止まり、舞台全体の空気がすっと張りつめます。
「どうする?」「開ける?」「でも声がちがうよ…」といった小さな声が自然に交わされるこの“間”は、子どもが自分の頭で考える時間です。
オオカミが登場するシーンでは、太鼓の低い音を鳴らしたり、舞台の隅からゆっくりと姿を現したりして、ほどよい“こわさ”を演出します。
ただし、それは子どもを脅かすためではなく、「怖いけれど見てみたい」「この先どうなるんだろう」と心を動かすための工夫です。
そして、母ヤギが子どもたちを助け出す場面では、照明をふわっと明るくし、やさしい音楽を流します。子どもたちの表情も自然と緩み、「よかった」「もう安心だね」という空気が舞台全体に広がります。
怖さだけで終わらせず、必ず“光と安心”で締めくくることが、物語を子どもの心にあたたかく残すために欠かせないと感じています。
第8章:おわりにーー劇が終わってから始まる学び
劇が終わったあとに、始まるもの

オオカミ、ほんとはさみしかったのかな…
劇が終わり、拍手の中でカーテンが閉まると、子どもたちは「やったー!」と笑顔で飛び跳ねたり、少し照れくさそうに保護者の顔をのぞき込んだりします。
しかし、本当に大切なのは、そのあとに続く時間です。 劇そのものは終わっても、物語は子どもの心の中で生き続けます。
帰り道で「オオカミ、ほんとはさみしかったのかな」とつぶやく子もいれば、家に帰ってから「ぼくが助けたんだよ」と何度も話す子もいます。
保護者が「そんなふうに感じていたんだね」と驚いたり、「じゃあ、パパがオオカミをやるよ」と親も物語遊びに参加したりと、余韻は家庭や地域にも広がっていきます。
劇あそびは、舞台の上だけで完結するものではありません。子どもたちの心の中で、そしてそれを見守る大人の心の中で、物語は静かに、しかし確かに生き続けます。
これからも、子どもたちと共に物語を生きる時間を大切にしながら、その火を少しずつ広げていきたいと願っています。
未来の「おはなしの街」

絵本で日本を救うっていつも言っているけれど、そんなこと、できるの?

絵本は子どもの生きる土台を作る。大人は絵本で生き直す。絵本の恵みをたくさんの人に届けたいの。
私は、松戸を「絵本とおはなしの街」にしたいと願っています。 それは、ただ本がたくさんある街にしたいということではありません。
子どもたちが物語を通して、自分の気持ちを言葉にし、 誰かと分かち合い、未来を描く力を育てていける街。
そんな場所を、みなさんと一緒につくっていきたいのです。
劇あそびやおはなし会は、特別な人だけのものではありません。 保育の現場でも、家庭でも、地域の集まりでも、 ちょっとした工夫とまなざしがあれば、誰でも始められます。
私は、55年の実践で得たものを、惜しみなくお伝えしたいと思っています。 台本のこと、演出のこと、子どもとのやりとりのこと―― 必要な方には、どこまでも寄り添ってサポートします。
どうか、あなたの場所でも、 子どもたちと物語を“生きる時間”をつくってください。
そして、いつか松戸のあちこちで、 子どもたちの声で物語が語られ、 笑い声と想像力があふれる風景が広がっていくことを、私は本気で願っています。
未来の「おはなしの街」は、もう始まっています。 一緒に育てていきましょう。

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