「グリム童話って、ちょっと怖いですよね」 そう言われることが、教育現場ではよくあります。 赤ずきんがオオカミに食べられたり、ヘンゼルとグレーテルが魔女に捕まったり—— 確かに、現代の絵本に比べると、グリム童話には“怖さ”や“残酷さ”が描かれている場面もあります。
でも私は、劇団天童を主宰し、演劇と絵本教育に55年携わってきた中で、何度も確信してきました。 グリム童話は、子どもたちの心を育てる“生きた教材”です。
本記事では、グリム童話の本質と教育的価値、そして現場での体験を通して、童話が子どもの心にどう働きかけるのかをお伝えします。
怖さは“避けるもの”ではなく“感じるもの
子どもたちは日々、さまざまな感情を経験しています。 嬉しい、悲しい、悔しい、怖い——。 けれど、それを言葉にするのは、意外と難しいものです。特に「怖い」という感情は、否定されたり、避けられたりしがちです。
でも私は、50年にわたる演劇と絵本教育の現場で、何度も見てきました。 怖さは、子どもが自分の心と向き合うための大切な感情です。 それを感じ、言葉にし、他者と分かち合うことで、子どもは一歩ずつ成長していきます。
たとえば、ある保育園で『赤ずきん』の劇を行ったときのこと。 赤ずきん役に選ばれた女の子は、普段はおとなしくて、自分の気持ちを言葉にするのが苦手でした。 オオカミに出会う場面で「こわい…でも、おばあちゃんに会いたい」とセリフを言う練習を重ねるうちに、 「私も、昨日お母さんに怒られて悲しかった」と、自分の気持ちを語り始めたのです。
劇の中で怖さを演じることで、彼女は自分の感情を受け止め、言葉にする力を身につけていきました。 発表会では、堂々とセリフを言い切り、観客の保護者から大きな拍手が送られました。
また、別の幼稚園では『ヘンゼルとグレーテル』の読み聞かせをした際、魔女が登場する場面で年中の男の子が泣き出しました。 先生方は心配しましたが、私はそっと語りかけました。
「怖かったね。でも、ヘンゼルはどうしたかな?」
すると彼は涙をぬぐいながら「勇気出して逃げた」と答えました。 その後、「ぼくも、怖い夢見たけど、朝になったら大丈夫だった」と話してくれました。
怖さを感じることは、弱さではありません。 それは、自分の心を知ること。そして、乗り越える力を育てることにつながります。
グリム童話の“怖さ”は、ただの恐怖ではなく、心の成長のきっかけなのです。 だからこそ、怖さを避けるのではなく、感じて、語って、受け止める場を、教育の中にこそつくっていきたいのです。
グリム童話の本質とは?
──子どもの心に“生きる力”を灯す物語
グリム童話の本質は、ずばり、「人間の本質を子どもの心に語りかけること」です。
善と悪、勇気と恐れ、孤独と助け合い—— それらはすべて、子どもたちがこれから生きていく社会の中で、必ず出会う感情や出来事です。 グリム童話は、それを“物語”という安全な枠の中で体験させてくれます。
しかも、ただ教訓を押しつけるのではありません。 子ども自身が「怖い」「悲しい」「うれしい」「どうしよう」と感じながら、物語の中で選び、迷い、気づいていく。 心で考え、心で学ぶことができるのが、グリム童話の力です。
そしてもうひとつ。 グリム童話は、ヨーロッパの民衆の暮らしや知恵、祈りのような願いが込められた“生きる物語”です。 だからこそ、時代を超えて、世界中の子どもたちの心に響き続けているのです。
私は、演劇と絵本教育の現場で何度も見てきました。 物語の中で子どもが泣き、笑い、怒り、許し、そして成長していく姿を。
グリム童話は、ただの昔話ではありません。 それは、子どもの心に“生きる力”を灯す、教育の原石なのです。
SELと童話教育の関
──物語の中で、子どもは“自分の心”に出会う
SEL(社会性と情動の学習)は、子どもたちが自分の感情を理解し、他者と協力しながら、健やかに生きる力を育てる教育です。 私は、劇団天童として長年現場に立ち、確信しています。 SELは、童話の中でこそ、自然に育まれるものです。
物語の中で、子どもは登場人物の気持ちを想像します。 「赤ずきんは、どんな気持ちだったのかな?」 「ヘンゼルは、妹を守りたかったんだね」 「白雪姫は、悲しかったけど、信じることをやめなかった」
こうした問いかけを通して、子どもたちは自分の感情に気づき、他者の気持ちに寄り添う力を育てていきます。
劇づくりや読み聞かせの場では、子どもたちが「怖い」「うれしい」「悔しい」「許したい」といった言葉を、自分の口で語り始めます。 それは、教科書では教えられない、“心の言葉”です。
SELの5つの領域(自己認識・自己管理・社会的認識・関係構築・責任ある意思決定)は、童話の中にすべてあります
SEL領域 | グリム童話の例 | 教育的ポイント |
---|---|---|
自己認識 | 赤ずきん | 怖さ・安心・後悔などの感情を言語化する練習に |
自己管理 | ヘンゼルとグレーテル | 不安や衝動を乗り越える力を描く |
社会的認識 | 星の銀貨 | 思いやり・無償の愛を感じる場面に |
関係構築 | ブレーメンの音楽隊 | 仲間と協力する喜びを体験する |
責任ある意思決定 | 白雪姫 | 自分の選択がどう影響するかを考えるきっかけに |
私は、子どもたちが物語の中で泣き、笑い、迷い、選び、そして成長していく姿を何度も見てきました。 その姿は、まるで“心の稽古”のようです。
童話教育は、SELを教えるための手段ではなく、SELそのものを体験する場です。 だからこそ、物語を語ること、演じること、感じることを、もっと教育の中に取り入れてほしいと願っています。
子どもたちの心は、物語の中で、そっと動き出します。 それを見守るのが、私たち大人の役割なのです。
現場からの体験談|子どもが変わる瞬間
『赤ずきん』で“怖さ”を言葉にできた瞬間
セリフ練習を通して、感情を語り始めた女の子の変化
「おばあちゃんのおうちに行くの、こわい……」 その言葉を、彼女が初めて口にしたとき、私は思わず息を呑みました。
赤ずきんのセリフ練習の時間。 5歳の女の子が、森の場面で立ち止まり、なかなかセリフを言えずにいました。 台本には「こんにちは、おばあちゃん」と書かれているだけ。 でも彼女は、何度もその場面になると、足をすくませてしまうのです。
「どうしたの?」と声をかけると、彼女はぽつりと言いました。 「オオカミが出てきそうで、こわいの……」
その瞬間、彼女の目に涙がにじみました。 でも、それは悲しみではなく、“自分の気持ちに気づいた”涙でした。
私はそっと言いました。 「赤ずきんも、きっと同じ気持ちだったよ。こわいって言っていいんだよ」
そこから彼女は、セリフに自分の言葉を足し始めました。 「こんにちは……おばあちゃん……ほんとは、ちょっとこわかったの」 その声は震えていたけれど、確かに“自分の心”を語っていました。
数日後、彼女は舞台の上で堂々とそのセリフを言いました。 観客の前で、自分の“こわさ”を言葉にして、演じきったのです。
この小さな変化は、SELの「自己認識」と「自己表現」の大きな一歩。 怖さを隠すのではなく、言葉にして、誰かに伝えること。 それが、彼女の心に“安心”と“自信”を育てました。
物語の中で、子どもは自分の感情に出会い、それを語る力を育てていきます。 それは、ただの演技ではなく、心の成長の物語なのです。
『白雪姫』で“感情を映す鏡”になった子ども
王妃の怒りに、そっと寄り添った男の子のまなざし
「王妃って、ほんとは悲しかったんじゃないかな」 その言葉を聞いたとき、私は胸がじんと熱くなりました。
小学校低学年の劇づくりの時間。 『白雪姫』の配役を決めるとき、ある男の子が「王妃をやりたい」と手を挙げました。 周囲はざわつきました。「えっ、悪い人なのに?」「女の役だよ?」 でも彼は静かに言いました。 「王妃の気持ち、ちょっとわかる気がするから」
練習が始まると、彼は王妃のセリフを何度も繰り返しながら、表情を作っていきました。 「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのは誰?」 その言い方は、怒りよりも、どこか不安げで、寂しそうでした。
ある日、彼がぽつりと語ってくれました。 「王妃って、白雪姫がきれいで、うらやましくて、でも自分も認めてほしくて……。 なんか、ぼくも弟がほめられると、ちょっとだけ、そういう気持ちになる」
その瞬間、私は彼が“感情を映す鏡”になっていることに気づきました。 王妃の複雑な心を、自分の経験と重ねて理解しようとしていたのです。
本番では、彼の王妃は、ただの“悪役”ではありませんでした。 嫉妬と孤独、そして認められたいという切なる願いが、舞台の空気を震わせました。
観客の先生が終演後に言いました。 「王妃の気持ちが、初めてわかった気がしました。あの子の演技、すごかったね」
SELの「社会的認識」は、こうして育ちます。 他者の感情を想像し、理解しようとする力。 それは、物語の中でこそ、子どもたちの心に深く根を張るのです。
童話は、善と悪を分けるだけのものではありません。 その奥にある“人の心”を見つめる鏡。 そして、子どもたちはその鏡を通して、自分自身をも見つけていくのです。
まとめ:SELと童話教育──子どもの心が動き出す瞬
SEL(社会性と情動の学習)は、子どもが自分の感情に気づき、他者と関わりながら、よりよく生きる力を育てる教育です。 その力は、童話の世界の中でこそ、自然に育まれます。
『赤ずきん』で「こわい」と言えた女の子。 『白雪姫』で王妃の気持ちに寄り添った男の子。 彼らは、物語の登場人物を通して、自分の心と向き合い、他者の感情を想像し、言葉にする力を育てていきました。
童話は、ただ読むだけではなく、語り、演じ、感じることで、SELの実践の場になります。 そこには、自己認識・自己管理・社会的認識・関係構築・責任ある意思決定──すべてのSELの要素が、物語の中に息づいています。
現場で何度も見てきました。 子どもたちは、物語の中で泣き、笑い、迷い、選び、そして成長していきます。 それは、心の稽古であり、命の学びです。
童話教育は、SELを“教える”のではなく、“体験させる”もの。 だからこそ、教育の中にもっと物語を。 子どもたちの心が動き出す瞬間を、私たち大人が見守り、支えていきたいのです。
コメント